パッション
パッション
パッションを観た人の感想
光景の焼きつく映画
この映画は、キリストの人間としての側面に重点を置いているように思われる。
その受難における贖いが、神としてという確信を持ったものとしては強調されておらず、むしろ1人の人間として自身の重すぎる使命に悩み苦しみそれでも神に運命をゆだねるイエスという1人の男の姿によって表されている。
私が特に評価すべきだと思っている点は、二つある。
一つ目は、映画中に使われている言語が、実際にこの時代、イエスの生まれ育った地域で使われていたアラム語である点だ。
吹き替え版があるのかどうか知らないが、鑑賞の際には絶対に吹き替えにはせず、イエスが実際に喋ったであろうアラム語を聞きながら臨場感を味わって欲しい。
もうひとつの注目すべき点は、視覚に訴えるヴィジュアル的美観であろう。
この映画は鞭打ちのシーンが20分ほど続いたり、目を覆いたくなるシーンが多い。
しかしその中の光景一つ一つが計算しつくされた色彩・陰影であって、グロテスクというよりはハッとさせられるという意味で印象的に心にシーンが焼きつく。
当時の鞭打ちは、本当に20分くらいは続いたそうであるから、単調に思われる鞭打ちのシーンにも、受難の苦しみに耐えるイエス像と、その光景を見ながらシンクロするように精神的な苦しみに震える聖母マリアの姿をよく見て欲しい。
映像の計算された美しさは、宗教映画の中では群を抜いているのではないかと思う。
また、この映画には聖書の引用が多数見受けられる。
それを知っていて見るのと知らないで見るのとではまったく意味が違ってくるので、もしこの映画でキリスト教に興味が湧いた方があれば、新約聖書の四福音書だけでも一読されてからまた観直してみると目から鱗が落ちるかもしれない。
最後の言葉の意味
これは、すごく衝撃的な映画です。
拷問や十字架を運ぶシーンや、手に釘を打つシーンは目を閉じました。
あまりにもリアルすぎて怖いからです。
でも、メシヤの立場にたったイエス様は、自らが犠牲となり、ユダヤ人を最後の最後まで愛した。
そして、誤解されがちな「主よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」←多少違うカモ・・・*
という言葉。
あれは決してイエス様の人間的な弱さがでたんじゃありません。
イエス様は神様の為に、そして人類の為に、世界を一つにするために救世主として
きたのです。
そして、イエス様は世界を一つにしてなく、最後、使命を果たせないまま十字架にかかってしまったので、そのように言ったのです。
あと、この世界の人がメシヤを殺した罪を背負わなければならないからです。
もし、神様が「十字架にかかりなさい」といったら、イエス様は何回も喜びの中で
十字架にかかったのでしょう。
イエス様は十字架にかかりにきたワケではないのです。
人間としてのイエスを感じる
最初の耳を切られたのを元に戻したシーンと、最後の復活のシーンを除けば、この映画全編を覆うのはイエスやマリアの人間性と人間愛である。彼の神秘性を強調したいのなら、もっと奇跡のシーンを盛り込むべきだったのだがメルはそれをしなかった。何故か?彼はイエスの神性を信じている今までのキリスト教徒を裏切らない形で「人間、イエス」を表現したかったのではないだろうか。
そういった視点があれば、最近になってその存在が確認された「ユダの福音書」、そして「ダ・ヴィンチ・コード」で暴かれたキリスト教の真実もこの映画と同時進行でも理解ができるはず。キリスト教の論争と殺戮の歴史と、イエスという男の物語の真実の追究とは切り離して考えることができれば、「キリスト教の歴史をわたしは嫌悪しているが、イエスという人間は非常に尊敬している。従ってキリスト教徒にも親近感を覚えることもある。」というわたしのように一見矛盾したようなメンタリティを持つ人もいるかもしれない。
菅原道真は学問の神様と呼ばれているが、そういう感覚と同列に、人間愛の神様としてなら、イエスを信じることができる気がする。これは日本人だからこその多神教的な考え方かもしれないが。
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定価: \4,725 販売価格: \3,810 人気ランキング: 4471位 おすすめ度: 発売日: 2004/12/23 発売元: 東宝 発送可能時期: 通常24時間以内に発送 |
光景の焼きつく映画この映画は、キリストの人間としての側面に重点を置いているように思われる。
その受難における贖いが、神としてという確信を持ったものとしては強調されておらず、むしろ1人の人間として自身の重すぎる使命に悩み苦しみそれでも神に運命をゆだねるイエスという1人の男の姿によって表されている。
私が特に評価すべきだと思っている点は、二つある。
一つ目は、映画中に使われている言語が、実際にこの時代、イエスの生まれ育った地域で使われていたアラム語である点だ。
吹き替え版があるのかどうか知らないが、鑑賞の際には絶対に吹き替えにはせず、イエスが実際に喋ったであろうアラム語を聞きながら臨場感を味わって欲しい。
もうひとつの注目すべき点は、視覚に訴えるヴィジュアル的美観であろう。
この映画は鞭打ちのシーンが20分ほど続いたり、目を覆いたくなるシーンが多い。
しかしその中の光景一つ一つが計算しつくされた色彩・陰影であって、グロテスクというよりはハッとさせられるという意味で印象的に心にシーンが焼きつく。
当時の鞭打ちは、本当に20分くらいは続いたそうであるから、単調に思われる鞭打ちのシーンにも、受難の苦しみに耐えるイエス像と、その光景を見ながらシンクロするように精神的な苦しみに震える聖母マリアの姿をよく見て欲しい。
映像の計算された美しさは、宗教映画の中では群を抜いているのではないかと思う。
また、この映画には聖書の引用が多数見受けられる。
それを知っていて見るのと知らないで見るのとではまったく意味が違ってくるので、もしこの映画でキリスト教に興味が湧いた方があれば、新約聖書の四福音書だけでも一読されてからまた観直してみると目から鱗が落ちるかもしれない。
最後の言葉の意味これは、すごく衝撃的な映画です。
拷問や十字架を運ぶシーンや、手に釘を打つシーンは目を閉じました。
あまりにもリアルすぎて怖いからです。
でも、メシヤの立場にたったイエス様は、自らが犠牲となり、ユダヤ人を最後の最後まで愛した。
そして、誤解されがちな「主よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」←多少違うカモ・・・*
という言葉。
あれは決してイエス様の人間的な弱さがでたんじゃありません。
イエス様は神様の為に、そして人類の為に、世界を一つにするために救世主として
きたのです。
そして、イエス様は世界を一つにしてなく、最後、使命を果たせないまま十字架にかかってしまったので、そのように言ったのです。
あと、この世界の人がメシヤを殺した罪を背負わなければならないからです。
もし、神様が「十字架にかかりなさい」といったら、イエス様は何回も喜びの中で
十字架にかかったのでしょう。
イエス様は十字架にかかりにきたワケではないのです。
人間としてのイエスを感じる最初の耳を切られたのを元に戻したシーンと、最後の復活のシーンを除けば、この映画全編を覆うのはイエスやマリアの人間性と人間愛である。彼の神秘性を強調したいのなら、もっと奇跡のシーンを盛り込むべきだったのだがメルはそれをしなかった。何故か?彼はイエスの神性を信じている今までのキリスト教徒を裏切らない形で「人間、イエス」を表現したかったのではないだろうか。
そういった視点があれば、最近になってその存在が確認された「ユダの福音書」、そして「ダ・ヴィンチ・コード」で暴かれたキリスト教の真実もこの映画と同時進行でも理解ができるはず。キリスト教の論争と殺戮の歴史と、イエスという男の物語の真実の追究とは切り離して考えることができれば、「キリスト教の歴史をわたしは嫌悪しているが、イエスという人間は非常に尊敬している。従ってキリスト教徒にも親近感を覚えることもある。」というわたしのように一見矛盾したようなメンタリティを持つ人もいるかもしれない。
菅原道真は学問の神様と呼ばれているが、そういう感覚と同列に、人間愛の神様としてなら、イエスを信じることができる気がする。これは日本人だからこその多神教的な考え方かもしれないが。