ロスト・イン・トランスレーション
ロスト・イン・トランスレーション
ロスト・イン・トランスレーションを観た人の感想
TOKYOという街の「深層」に触れる
ろくに言葉も通じない異国の地にひとり放り出され、如何ともしがたい孤独感と、表面上は「欧米の仮面」をかぶった“TOKYO”という不可思議な都市の中で感じ取ったカルチャー・ギャップに対する戸惑い…。
表向きはさほど自分たちの文化と遠いものではないと思いつつ、じわじわと「違和」が募り、滞在する時間が長くなり孤立する状況に置かれるにつれ、「異邦人」としての不条理やいたたまれなさが耐え難くなってくる…。
それぞれに温度差はありながらも、同じように、そうした思いを募らせていた男女は、ふとした巡り合わせで互いに引き合うように出会う。そして出会いは、それぞれが「違和に囚われた異邦人」という境遇にあることを確認し合いながら深まってゆく。しかし、彼らの間にある関係性はストイックなほどに内省的である。夜の街でナイトクラビングにうつつを抜かし、やんちゃの限りを尽くしながら決して一線は越えない。
ふたりのかかわりはまるで「鏡」のようである。孤立し違和に苛まれる互いの姿を映し合いつつ、ひたすら「自分さがし」をしているように見える。
ところで、何よりもインパクトがあったのは、背景にある舞台―“TOKYO”という街の姿である。欧米人にありがちな、珍奇な「異文化」を見る眼差しで多少誇張気味に描かれているところもあるが…いつも見なれているにもかかわらず、今まで見たこともない街…。西欧文化のまがいものっぽいガジェットに覆われ、表層だけで上滑りしているような街…。
反面、この映画は、この街の深層をも透かし見せてくれたように思う。異なった時間の流れの中にあり、静謐で昇華された「精神性」に満たされた空間としての「トウキョウ」である。
ラストシーンのバックに流れるジーザス&メリー・チェインの "Just Like Honey" の切なくも清々しいメロディー。このシーンに触れられただけでも、この映画を観る価値があったと思う。
齟齬の蓄積
この東京(日本)観がステレオタイプだとか、軽薄なオリエンタリズムだとか、そうとも言えるが、現実に「アメリカの都会の若いセレブリティ」が東京に感じる風景は、この映画の通りなのだという事実を理解しなければいけないし、京都の風光明媚な風景に比べて東京の猥雑さを貶めることなく、むしろネオンやクラブの照明が美しい多様な「光の街」として肯定的に捉えていることも真摯に受け止めたい。
知らない土地を撮った映画が、観光者の視点から完全に自由になることはありえないし(それは東京の監督が大阪を撮るというレベルの距離であっても起こるものだ)それを論じたところで本作の価値は毀損しない。
2人は静かに出会い、周囲の環境と身内との細かい齟齬を重ねることによって、互いに惹かれあう。その齟齬は過去のハリウッド映画で描かれた「旅先の孤独」とは大きく異なる。
2人が高級外資系ホテルであるパークハイアットを起点として、若くセンスのよい日本人たちとナイトライフを楽しむ。そこで現れる東京は洗練された都市で、英語も通じ、外国人を受け入れない街ではない。
大部分はNYなどの都市と同じだが、CM撮影で通訳が小さな誤訳を重ねてビル・マーレイが疲弊するシーンが象徴するように、「なにか少しだけ違う」という感覚が、徐々に蓄積され主人公達を街から疎外していく。さらに2人とも互いの配偶者とのすれ違いが重なり、疎外感は増幅していく。
アメリカの映画で描かれてきた「理解し難い不思議な日本」よりも、主人公達の夫婦のように、理解しあうことを前提としながらも微小な違和感がいくつか重なることで孤独を生む場所として東京を描くには繊細な表現力を必要とする。その技量は新しい世代の映画作家として評価できると思う。
はっぴいえんど、マーレイ、ヨハンソン
マーレイ、ヨハンソン・・・この二人がほとんど全て。この二人の俳優をチョイスしたところに抜群のセンスがある。マーレイはやっぱり、これと似たようなテーマの「恋はデジャブ」のキャラが気に入られたのだろう。
・・・あとは、世界的映画監督の娘だけが持ちうる視点から見た風景というものがある。
ラストはありがちだが、やっぱりジーンとくる。はっぴいえんどの「風をあつめて」が流れてくるとやっぱりグッと来るものがある。
あとは・・・・これが東京が舞台というのは必然かな。台北やソウルだったら、まだ先のある街なので、ソフィアのもつ閉塞感に満ちた心象風景と重ならないだろう。
あとは何だ・・・・マシュー森か?(苦笑)
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定価: \3,990 販売価格: \3,121 人気ランキング: 992位 おすすめ度: 発売日: 2004/12/03 発売元: 東北新社 発送可能時期: 通常24時間以内に発送 |
TOKYOという街の「深層」に触れるろくに言葉も通じない異国の地にひとり放り出され、如何ともしがたい孤独感と、表面上は「欧米の仮面」をかぶった“TOKYO”という不可思議な都市の中で感じ取ったカルチャー・ギャップに対する戸惑い…。
表向きはさほど自分たちの文化と遠いものではないと思いつつ、じわじわと「違和」が募り、滞在する時間が長くなり孤立する状況に置かれるにつれ、「異邦人」としての不条理やいたたまれなさが耐え難くなってくる…。
それぞれに温度差はありながらも、同じように、そうした思いを募らせていた男女は、ふとした巡り合わせで互いに引き合うように出会う。そして出会いは、それぞれが「違和に囚われた異邦人」という境遇にあることを確認し合いながら深まってゆく。しかし、彼らの間にある関係性はストイックなほどに内省的である。夜の街でナイトクラビングにうつつを抜かし、やんちゃの限りを尽くしながら決して一線は越えない。
ふたりのかかわりはまるで「鏡」のようである。孤立し違和に苛まれる互いの姿を映し合いつつ、ひたすら「自分さがし」をしているように見える。
ところで、何よりもインパクトがあったのは、背景にある舞台―“TOKYO”という街の姿である。欧米人にありがちな、珍奇な「異文化」を見る眼差しで多少誇張気味に描かれているところもあるが…いつも見なれているにもかかわらず、今まで見たこともない街…。西欧文化のまがいものっぽいガジェットに覆われ、表層だけで上滑りしているような街…。
反面、この映画は、この街の深層をも透かし見せてくれたように思う。異なった時間の流れの中にあり、静謐で昇華された「精神性」に満たされた空間としての「トウキョウ」である。
ラストシーンのバックに流れるジーザス&メリー・チェインの "Just Like Honey" の切なくも清々しいメロディー。このシーンに触れられただけでも、この映画を観る価値があったと思う。
齟齬の蓄積この東京(日本)観がステレオタイプだとか、軽薄なオリエンタリズムだとか、そうとも言えるが、現実に「アメリカの都会の若いセレブリティ」が東京に感じる風景は、この映画の通りなのだという事実を理解しなければいけないし、京都の風光明媚な風景に比べて東京の猥雑さを貶めることなく、むしろネオンやクラブの照明が美しい多様な「光の街」として肯定的に捉えていることも真摯に受け止めたい。
知らない土地を撮った映画が、観光者の視点から完全に自由になることはありえないし(それは東京の監督が大阪を撮るというレベルの距離であっても起こるものだ)それを論じたところで本作の価値は毀損しない。
2人は静かに出会い、周囲の環境と身内との細かい齟齬を重ねることによって、互いに惹かれあう。その齟齬は過去のハリウッド映画で描かれた「旅先の孤独」とは大きく異なる。
2人が高級外資系ホテルであるパークハイアットを起点として、若くセンスのよい日本人たちとナイトライフを楽しむ。そこで現れる東京は洗練された都市で、英語も通じ、外国人を受け入れない街ではない。
大部分はNYなどの都市と同じだが、CM撮影で通訳が小さな誤訳を重ねてビル・マーレイが疲弊するシーンが象徴するように、「なにか少しだけ違う」という感覚が、徐々に蓄積され主人公達を街から疎外していく。さらに2人とも互いの配偶者とのすれ違いが重なり、疎外感は増幅していく。
アメリカの映画で描かれてきた「理解し難い不思議な日本」よりも、主人公達の夫婦のように、理解しあうことを前提としながらも微小な違和感がいくつか重なることで孤独を生む場所として東京を描くには繊細な表現力を必要とする。その技量は新しい世代の映画作家として評価できると思う。
はっぴいえんど、マーレイ、ヨハンソンマーレイ、ヨハンソン・・・この二人がほとんど全て。この二人の俳優をチョイスしたところに抜群のセンスがある。マーレイはやっぱり、これと似たようなテーマの「恋はデジャブ」のキャラが気に入られたのだろう。
・・・あとは、世界的映画監督の娘だけが持ちうる視点から見た風景というものがある。
ラストはありがちだが、やっぱりジーンとくる。はっぴいえんどの「風をあつめて」が流れてくるとやっぱりグッと来るものがある。
あとは・・・・これが東京が舞台というのは必然かな。台北やソウルだったら、まだ先のある街なので、ソフィアのもつ閉塞感に満ちた心象風景と重ならないだろう。
あとは何だ・・・・マシュー森か?(苦笑)